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秀吉朱印状と仁木家の伝説



 永禄8年(1565)5月19日将軍足利義輝は松永久秀・ 三好衆のクーデタで暗殺される(永禄の変)、
 将軍執事だった仁木七郎頼景も討死。頼景の子頼為は逃れ血縁を頼り赤松宏通(斎村政広)の
 但馬竹田城に身を寄せる。
 当時竹田城には後に日本朱子学(儒教)の祖と言われる藤原惺窩(フジワラ セイカ)がいて、
 城主の赤松宏通は藤原惺窩と共に朱子学の理想の国を目指して国作りを進めていた。
 仁木頼為はここで藤原惺窩から朱子学の思想「君臣義あり」を学んだと思われる。

 天正18年(1590)8月16日 秀吉が奥州葛西大崎一揆にそなえて浅野長政や木村吉清を派遣した、
 この際の出陣命令がこの朱印状と見られる。この時、秀吉側近の郡主馬が秀吉の命として
 仁木頼為にも出陣を命じたが頼為は命に背き作州(津山市)の山中に隠遁し、慶長3年(1598)に
 作州東北条郡にて没したと伝えられている。


 仁木頼為が秀吉の命に背き作州に隠遁した理由
 秀吉は家臣が少なかったので足利幕府の幕臣や滅ぼした大名の家臣を多く抱えている。
 そのため秀吉の家臣団には逆臣や敵同士が少なくなかった。

 郡主馬も木村吉清も主家を乗っ取った逆臣荒木村重の旧家臣だし、郡主馬の娘が木村吉清に
 嫁いでいる。木村吉清の次なる主君明智光秀もやはり逆臣、木村吉清自身も本能寺の変直後に
 主君明智光秀を裏切り秀吉に付いた逆臣である。
さらに、木村吉清は元々は松永久秀の一族に
 仕えていたので、仁木頼為にとっては主君と親の敵筋に当るので藤原惺窩から主従関係を
 重んずる朱子学を学んだ頼為は木村吉清らと行動と共にする事は出来ず、下克上と逆臣ばかりの
 乱れた世を嘆き作州の山中に隠遁するしかなかった。


 この朱印状が伝わる津山市籾保の仁木家には今もって朱子学の原典である「 白鹿堂書院掲示 」が
 家訓として伝えられている、曰く「君臣義あり」と。



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