仁木永祐(津山市) “美作の板垣”と呼ばれた民権家




津山市籾保にある仁木永祐が暮らした家。代々医業を営んだ家らしい堂々とした構えだ
津山市籾保にある 仁木永祐が暮らした家。代々医業を営んだ家らしい堂々とした構えだ


  にき・えいすけ 1830―1902年。現在の津山市加茂町下津川、庄屋豊田伊兵衛の四男として生まれ、同市籾保の医師仁木隆助の養子となる。洋学者の箕 作阮甫、宇田川興斎らに医学、蘭学を師事。漢学、儒学にも通じ、医業の傍ら私塾を開いて数多くの後進を教育した。明治に入っては、地元の日就小校長や、岡 山県会議員(1880―82年)を歴任。1882年には美作自由党を結成し、自由民権運動に参加した。ため池の民有復帰のほか、山陰、山陽間の鉄道敷設に も尽力。1926(大正15)年に建立された顕彰石碑の題字は“最後の元老”西園寺公望(1849―1940年)の揮毫(きごう)。現存する肖像画(仁木 家蔵)もこの時期に描かれたらしい。


 雪を冠した中国山地。吹き下りてきた風が、身を切るように冷たい。南に開けた斜面に、段々と連なる田んぼ、そしてため 池。津山市街の北郊、籾保(もみほ)地区は、冬枯れの景色の中にじっと沈んでいた。

 その高台にまるで時間が止まったかのような旧家があった。幕末明治期までは医業を営んだというだけあり、扉、柱、梁(は り)に古材をそのまま残す門は、堂々たる風格。そして、これも往事のままかという表札が掛かっている。

 刻まれた名は「仁木永祐」―。現在でこそ知る人ぞ知る存在だが、生前は、明治期の自由民権運動の指導者板垣退助 (1837―1919年)になぞらえて“美作の板垣”と呼ばれた人物だという。


“命のため池”民有復帰へ奮闘

 漢方薬の包み、人体模型、そして幕末・明治期には最先端の医療器具だった注射器、ピンセット…。これらのおかげで、どれ だけ多くの人が救われたことだろう。

 津山市西新町、津山洋学資料館で開かれている仁木永祐の生誕180年記念企画展。仁木が医師として活躍したころの診療風 景をしのばせる資料が公開されている。

 仁木は、江戸で津山藩医箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799―1863年)、宇田川興斎(1821―87年)らに医術 を学んで帰郷。大政奉還のちょうど10年前、1857年に開業して地域の人々の健康を守り、また私塾での子弟教育に身をささげていた。

 「先進的な津山洋学の洗礼を受けた優秀な医師。生まれるのが10年早くても遅くても、そのまま人生を終えただろう」と下 山純正同資料館長はみる。

 そんな仁木を、時代のうねりの中に押し出す事件が起きた。

不条理に直面

  1876(明治9)年、美作地方一帯を占めた北条県と旧岡山県が合併し、現在に続く岡山県が誕生した。その結果、旧北条県では民有だったため池が2502 カ所も官有とされ、利用には納税が必要とされた。いわゆる「地租改正」の影響だが、水利に乏しい美作地域の農民たちには死活問題だった。

 地域の名士となっていた仁木は問題を訴えたが、鬼県令と呼ばれた高崎五六(1836―96年)率いる岡山県には相手にさ れない。ならばと81年、内務省への直訴に及んだ。

  岡山地方史研究会員の三棹章弘さん(45)が注目するのは、その時の手法だ。当時は重い地租負担に反発して、全国的に血税一揆が頻発していた。だが、仁木 は農民が江戸時代から村を挙げてため池を整備、保守してきたという歴史を盾に権利を訴えた。「実力行使ではなく理論立てて主張したのは、新しい時代にふさ わしく画期的」と三棹さん。修めた津山洋学の気風も生きたのだろう。

 内務省は翌82年に訴えを認め、県に改 めるように命じる。ところが高崎県令は従わず、ため池の所有権が農民に認められるのは94年まで遅れる。不条理に直面した仁木は、権利や自由そのものを求 める自由民権運動に目覚めた。国会開設を政府に要請する請願書のとりまとめに奔走し、美作自由党の設立にも参加。地域の声を中央に届ける役目を担った。

 その献身的な行動に、仁木はいつしか“美作の板垣”と呼ばれるようになっていた。

「無取」の人柄

  「こんな史料が見つかったんですよ」。小島徹津山洋学資料館学芸員が勢い込む。きちょうめんな字で〈自由党ノ一部脱シテ自由倶楽部トナル此ノ時亦タ同志ト 上京シ板垣総理ニ面シ復党ノ事ヲ談ス〉。国会開設の世論をけん引してきた自由党が悲願目前に内部分裂した際、仁木が“本物の板垣”と面会、策を練った事実 が記される。

 近年、仁木家から同資料館に寄託された約1200点に及ぶ文書史料を少し読み広げただけで見つかった新たな史実。小島学 芸員は「地方の人間が中央とつながって、国を動かしていったことを裏付ける」と価値を評価。今後の本格的な研究に思いをはせている。

 仁木の旧宅近く。丘の上に、高さ5メートルはあろうかという石碑が建つ。没後の1926(大正15)年、功績に感謝した 地元住民たちが残した。業績をたたえる碑文の中に3カ所も現れる「無取(無私)」という言葉が、仁木の人柄をしのばせる。

 地元でも顕彰が始まり、石碑の周りはきれいに草刈りがされている。現在は、籾保町内会や市医師会などが石碑の解説板を設 置しようと募金活動に取り組む。序幕のころには、籾保老人クラブが植えた桜15本も咲いているだろう。

 同町内会長の二木(ふたつぎ)一郎さん(63)は「この場を美しく守ることで、仁木の功績を伝えていきたい。地元のこ と、そして国の行く末を人一倍思っていた、忘れてはいけない人だから」と語気を強めた。


(2011年1月24日掲載)

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